| ４，同日、夕暮れ 「えっ、鷹生……？ レッスン、終わったの？」 暁人は、ちょうどホールから出て、明かりの灯り始めたキャンパスの方に歩いていくところだった。春休みなのと、夕暮れなのとで、辺りに人影はない。おそらくこんなに早く練習が終わるとは知らずに、時間を潰すつもりだったのだろう。 息を切らせて駆け寄ってきた自分を振り向き、彼はひどく驚いたようだった。もうだいぶ薄暗いせいか、小さな顔がいつもよりさらに白く、ぽうっと浮かんで見える。 鷹生は自分でも気がつかないうちに、長い腕を伸ばし、その細い腕を掴んでいた。ぐいっとまっすぐにこちらを向けさせ、引き寄せる。 「……！」 暁人が驚いたように鷹生を見上げた。その中に、わずかに怯えの表情が浮かんでいるような気がした。それがまた、昼間の、見知らぬ男を無邪気に見上げていた彼の笑顔に重なった。 「えっ……？」 鷹生はたまらなくなって、暁人をさらに強く引き寄せ、まるで噛みつくようなキスをしていた。もう、乱暴な振る舞いは絶対にするまい、と思っていたのに、耐えきれなかった。暁人の温かな舌を捕らえ、吸い上げ、自分の舌と、歯とあごとでしっかりと押さえつけた。と、同時に、自分の長い足で暁人の膝をわり、強く腰を挟みつける。そして両腕は、暁人の薄く華奢な背中に回し、きつく抱きしめた。──何もかも、自分のものだというように。 けれど、そうしながら、鷹生はほとんど劣情を感じていなかった。いつも触れるだけで高ぶってしまうはずのその華奢な身体や、温かく湿った口中の感触も、今はただ、切ない想いをかき立てているだけだった。誰にも暁人を渡したくない、と思った。十五年もの間、ただひたすら思いつめてきた愛しい恋人だったのだから。 「た、かお……？」 やがて、長い執拗なキスから彼をようやく解放すると、鷹生は、息を弾ませている暁人の身体をそのままかき抱いた。唇から、勝手に呟くような声がもれた。 「──誰なんだ、あいつは」 「え……？」 肩越しに、まだ少しぼうっとした暁人の声が聞こえた。それを聞いて、鷹生はまたカッとなり、手をゆるめると、彼をもう一度のぞき込んで言った。 「お前が今日、銀座で会っていたのって……一体、誰なんだよ、教えてくれよ！」 「……」 自分の声が、詰問したつもりだったのに、まるで哀願するような情けない口調になっているのに気づいた。暁人の、少し潤んだ、黒く綺麗な瞳が、きょとんと見開かれてこちらを見た。その中に、自分の姿が映し出されていた。小さな小さな映像なのに、自分の顔色が変わっているのがわかる。 ──その時、ふいに暁人が笑い出した。 鷹生は呆然とした。暁人はまっすぐにこちらを見つめたまま、白い歯を見せ、大きな瞳を少し細めて、笑っていた。 「君……どうしたの、なんでそんなこと聞くの？」 予想外の反応に、鷹生は青ざめた。思わず彼の手を握りしめ、何か言おうとした。けれどその時、暁人は小さく身をよじると、ちょうど背後にあった掲示板を指さした。 「その男って……この人じゃなかった？」 鷹生は目を見はって、そこに貼られたばかりらしい、真新しい大きなポスターを見た。 その中でピアノに向かって座っているのは、間違いなくあの男だった。品のいい秀麗な面差し。すんなりとした身体に、燕尾服がしっくりと馴染んでいる。 そしてそのかたわらには、美しいレタリングでこう書かれていた。 「九条怜人 帰国記念コンサート 五月一日午後七時より、青嵐学園内 コンサートホールにて開催」 「……！」 鷹生は、そのポスターを見つめ、しばらく呆然としていた。 「その人ね、僕の兄さんなんだよ」 暁人は少し、誇らし気な口調で言った。 「前にも言ったよね？ 僕、ドイツに留学している兄さんがいるって。ほんのちょっと前に、それが終わって帰国したんだよ、今、実家にいるんだ」 「なんだって……？」 鷹生は目を見はって暁人を見つめた。勇の言ったことが、やっとわかってきた。確かに、つき合いの長いあいつなら、暁人の兄に会ったことくらいある筈だ……。 思わず舌打ちしそうになった。そんな鷹生の思いをよそに、暁人はまわりを見回し、今度はちょっと恥ずかしそうに微笑んだ。 「ええと、今、誰もいないから……ここでいいかな」 そっと、肩に下げていたバッグから、かなり大きな包みを取り出す。わざわざラッピングし直したのか、美しい深い青の包装紙に、しゃれた、渋い光沢の銀のリボンが掛かっていた。 「──あのね、君にこれ、あげようと思って……だから銀座まで、兄さんについてきてもらったんだ。開けてみてくれる？」 はい、と両手でさしだされたその包みを、鷹生はまだ呆然としたまま、やはり両手で受け取った。 リボンと包装紙は、簡単に解けた。そして、その中には真新しい楽譜が数冊、それにＣＤが数枚、入っていた。鷹生は目を見はった。 「それ、スクリャービンと、プロコフィエフのソナタ集の楽譜なんだ」 暁人はにこにこしながら、そう言った。どちらも近代ロシアの作曲家である。 「君、今度のコンクールで、スクリャービン弾くんでしょう？ 今回のプロコフィエフも、もっと色々弾いてみたい、って言っていたよね。でもどっちも、日本だと楽譜も、演奏のＣＤもちょっと手に入れにくい作曲家だから、よければ探してあげられないかな、って思ったんだ。海外で出版されている楽譜を専門に扱うお店が、銀座にあるって前に聞いていたし、そこなら大きなＣＤ屋さんもあるからね。で、兄さんに相談したら、俺はよくそこに行くから、一緒に見てやるよ、って言ってくれたんだよ。──あとで、お店の場所も教えるね」 「…だけどお前、こんな高価な楽譜……それにＣＤまで、どうやって……」 まだその場に立ちつくしたまま、鷹生は、そんな野暮なことを口にしている自分に気づき、つい顔を赤らめた。 実は、ピアノの楽譜は、安いものでも一冊数千円はする。暁人が買ってきたような、日本ではあまり一般的でない作曲家ならもっと高価だ。コピーをする手もあるのだが、今は研究が進んで、次々に指使いや記号の解釈が変わるし、コピーの方がどうしても見づらいから、あまりいい方法ではない。また、編集者や出版社、それに日本版と海外版などで、さらに解釈が大きく異なる時があり、何冊か確かめないといけない時もある。鷹生は、青嵐学園に合格する前、それで何度も困ったことがあった。 「えへへ、もう教えてもいいよね。……あのね、実は僕、謝恩会コンサートの後は、ずっとバイトしてたんだ」 そう、暁人が笑顔のまま答えたので、鷹生はまた驚いた。 「なんだって？」 「今日、ホワイトディでしょ？ だから……君になにか、自分のお金でプレゼントしたかったんだ。僕は君と違って、ずっと甘やかされっぱなしだから、自己満足なんだけど……でも、どうしてもそうしたかった」 恥ずかしそうに続ける暁人に、鷹生はあわてて言った。 「何言ってるんだお前、また、喘息の発作とか起こしたらどうするんだ！ お前は無理が出来ない身体なんだぞ！」 「ううん、大丈夫だよ。あのね、バイト先は、イチハラコーポレーションっていうＨＰを作っている会社なんだけど、そこの仁科さんっていう社員の人と、僕とが、同じ病院で知り合いだったんだ。だからその人、僕の身体のことを知っていて、ちゃんと気づかってくれてるんだ。短期に仕事が集中する時期だったから、バイト代もよかったし……」 ふと、暁人は心配そうな顔になった。 「あの、気に入らなかった？ 楽譜なんて、気がきいていないかもしれないけれど……こういうものを扱っているお店なら、僕もわりと詳しいんだ。うちはみんなピアノを弾くから、少しだけど割引きくし……だから、これなら君の役に立つかな、と思って、……！」 一生懸命に言う暁人の身体を、鷹生は贈り物を抱えたまま、たぐり寄せるようにしてしっかりと抱きしめた。これまでさんざん悩んでいた幾つかのことが頭をよぎり、自分の浅はかさが、どうしようもないほどに恥ずかしく感じた。 「──嬉しいよ、ありがとう」 そう言った途端、背中で、暁人がとても嬉しそうな顔をするのが、見なくてもわかった。ほっそりした腕に力がこめられてくる。愛しい感触だった。けれど、あることが気になって、鷹生は言葉を続けた。 「だけど、ホワイトディなんだから、俺がお前に贈るのが本当じゃないのか？ まさかお前がこんなことをしてくれるなんて、俺は思ってもいなかった……」 「だって……ヴァレンタインは、君と二人で過ごしただろ？」 背中でまた、暁人のささやくような声が聞こえた。はにかんだ、可愛らしい声だった。 「あの時……一日中君と一緒にいられて、僕は本当に嬉しかったんだ。ええと……君といるときはいつもそうだけど、やっぱりそういう日だから、って思うと特別な気がして……。だから、そんな素敵な日をくれたことに、お礼したかったんだ。──それにホラ、僕だって男だから、贈ったっていいよね？」 「……」 最後の口調は、笑みを含んでいた。鷹生は、一旦手をほどいてそんな暁人を見つめた。彼の顔が上気している。薄明かりの中でもそれがわかった。その、おとなしやかで、綺麗な暁人の顔を見ていると、震えてしまいそうなほどに愛しさを感じた。そして、同時に、どうしようもない恥ずかしさを感じていた。 「……すまん。お前がそんなに考えてくれていたのに、俺は、自分の気持ちばかりかまけていて、なんにも……」 「え？ そんなこといいよ」 「よくない。だから、俺に出来ることだったら、何でも言ってくれ」 鷹生は暁人を真剣に見つめた。一緒に過ごして幸せだったのは、自分も同じだ。いや、暁人に出会えたからこそ、自分は初めて幸せになれたのだ……。 「……」 すると、すっ、と、小さな両手が、鷹生の端正な顔を挟んだ。 「じゃあこれから……一晩中、一緒にいたい。ヴァレンタインの夜みたいに」 暁人は、真っ正面から鷹生を見つめ、同じくらい真剣にそう言った。鷹生は再び手を伸ばして、その華奢な身体を、力一杯抱きしめた。 三月の、まだ少し冷たい風が、二人の髪を優しく揺らしていった。それはどこか柔らかな、甘い花の香りがした。 |